讃岐の地に古くから「海の護り神」と呼ばれてきた金刀比羅宮があります。金刀比羅宮の由緒については二つの説があり、そのひとつはヒンドゥー教のガンジス川の神クンビーラが仏教に取り入れられ宮比羅大将となり、神仏習合によって金毘羅大権現が成立。クンビーラがガンジス川の水神であったことから、日本では海上交通の護り神として信仰されてきたというものです。もうひとつの説は、古代、金刀比羅宮がある象頭山の麓まで入江が入り込んでいたため、金刀比羅宮は「海の護り神」として信仰されるようになったというものです。
琴陵宥常氏の像
明治19年(1886)10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没しました。この時、イギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、乗り合わせていた日本人25人は船に取り残され全員が水死しました。この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、大きな国際問題になりましたが、同船船長に対する責任は事件の規模から見ると極めて軽微であり、日本国民の感情を大きく傷つけました。
この事故の経緯や結果をみて、金刀比羅宮宮司であった琴陵宥常氏は海上安全を祈願しながら水難救済制度の必要性を痛感しました。
神護は人力の限りを尽くして初めて得られるものであり、徒らに神力のみに頼るのは神に敬意を失するものであると考えた宥常宮司は、日夜海難守護の神に仕えて海上安全を祈願するかたわら、何とかして現実に多発する海上の遭難者を救う方法、組織のありかたを得ることはできないかと苦慮していました。
思案に暮れていた明治20年(1887)、時の農商務大臣黒田清隆伯爵の欧州視察旅行記録「環游日記」が発行され、その中にロシア水難救済会の沿革、組織、職能についての詳細な説明が紹介されていました。これに目を通す機会のあった宥常宮司は感動し、さっそく水難救済会の設立を目指して積極的に行動を起こしました。
当時の日本は鎖国政策を捨て、明治の時代になって20年、国力の発展に伴い海上交通は日々輻輳の度を加え、漁業もまた近海から遠洋に活動の場を拡大していたため、海上の遭難も著しく増加し、新聞事業の発展もあいまって報道される海上遭難の記事は広く一般の人心を刺激し、海難救助の必要性が識者の間にようやく認められてきていました。
明治21年(1888)、宥常宮司は上京して水難救済会の設立に向け活動を開始。「大日本帝国水難救済会大旨」を起草し、識者に送付してこの制度の必要性を説き、ひろく協力を求めました。
明治22年(1889)3月、宥常宮司は当時の総理大臣黒田清隆伯爵に会い、水難救済会設立に大きな賛同を得ました。さらに、当時の海軍次官等と設立について協議を重ね、同年11月3日の天長節に讃岐の金刀比羅宮において「大日本帝国水難救済会」の開会式が挙行され、ここに今日の日本水難救済会の礎が築かれました。
越えて、明治23年(1890)4月、有栖川宮威仁親王殿下を初代総裁に推戴するとともに、役職員を充実し、事務組織を逐次整備して、その基礎を固めました。
宥常宮司は明治25年(1892)2月、琴平で逝去されましたが、海の安全と人を尊ぶ精神は変わることなく今も脈々と受け継がれています。
初代名誉総裁 高円宮憲仁親王殿下
遥か明治の時代、相次ぐ水難事故を憂い、「海の護り神」である金刀比羅宮で海における人命の安全をひたすら祈り続けていた宥常宮司の水難救済への願いは、ここ讃岐の地で開花しました。それから幾星霜、世紀が変わり、我が国を取り巻く状況が変化した現在でも、その精神はいささかも変わることなく日本水難救済会により脈々と引き継がれています。
平成16年(2004)秋に執り行われた金刀比羅宮「平成の大遷座祭」斎行記念の悼尾を飾る特別展として、平成17年4月から5月にかけて『高円宮憲仁親王殿下を偲ぶ展・写真とコレクションで綴る、在りし日のメモリー』を開催いたしました。
この特別展では、高円宮殿下のご遺志を継がれた妃殿下が、名誉総裁をおつとめになられておられます本会関連のパネルなども併せて展示させて頂き、ここに宥常宮司の今に生きるDNAを見る思いがいたしました。
現 金刀比羅宮 宮司 琴陵泰裕氏
時代とともに日本水難救済会は、新たに洋上救急事業や青い羽根募金活動に取り組む等、極めて有意義な展開をみていますが、常に人力の限りを尽くすという宥常宮司の根本的なボランティア精神が、その根底にあることを感じます。現 金刀比羅宮宮司としても、今に生きる宥常宮司の大きな存在を誇りとし、その精神は現在も受け継がれています。
明治38年(1905)、日露戦争での日本海海戦で日本海軍はロシアバルチック艦隊を撃破しましたが、このとき2名のロシア兵が水難救済会によって救助されました。 この人道主義の発露ともいうべき水難救済会の行動に東郷提督は心を打たれ、水難救済会のために黄金色の扇に「義普 八紘 愛續 四海」の書を残しています。この書の意味は、水難救済会の活動(義)が国内外隅々に(八紘)普く広がり、さらに義、すなわち愛が世界(四海)に広がる(続く)と解釈できます。
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